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門松の竹を斜めに切る理由は?狸おやじが由来?他の切り方もある?
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お正月らしい風物詩に門松があります。
神社やお寺、商店街や会社、官庁や古くからある家などの入口に飾られますが、その竹が斜めに切ってあるのはなぜなのでしょうか?
諸説ありますが、その中の一つはあの「狸親父」が関連しているようです。
門松の由来、竹を斜めに切る理由を調査してみました。
門松は、松かざり、立て松ともいい、年神(正月神)さまを家に迎え入れるための依り代と考えられています。
神様が宿ると言われるのは常緑の樹(常盤木:ときわぎ)で、その中でも松は「祀る」につながることから、平安時代から門松として正月飾りに使われてきました。
神様が宿るのは常緑の木なので、地方によってはクリスマスツリーとしても使われる『樅の木(もみの木)』や、最高級の将棋盤・碁盤にも使われる『榧の木(かやのき)』でお迎えするところもあるようです。
現代の門松の元祖ともなる竹と松を一緒に飾るようになったのは、鎌倉時代以降のようです。
門松の竹を斜めに切る理由は、狸親父が関係している?
門松というと、竹を斜めに切ったものが飾ってあるとの印象が強いですが、竹を水平に切る門松もあります。
竹の先端を斜めに切ったものを「そぎ」
水平に切ったものを「寸胴:ずんどう」
と呼びます。
諸説ありますが、斜めに切った理由の一つに「狸親父」とのあだ名で呼ばれる徳川家康にまつわる話があります。
出典は「やまなしの民俗」という本です。
ーーーここからーーー
戦国時代、武田と徳川が戦いの中で正月を迎え、両軍とも門松を競って作った。
徳川方は竹の先を斜めに切ったが、武田方は竹の節のところで平らに切り落とした。
これを見た両軍は、お互いに相手をからかったという。
武田方で「松(徳川)枯れて、竹(武田)たぐひなきあしたかな」と言えば、徳川方では「松(徳川)枯れで、竹だ武田)くび(首)なきあしたかな」とやり返したという。
このことから、甲州では門松の竹の先を斜めに切ることを忌み嫌い、竹の先を平らにするようになったと言われている。
ーーーここまでーーー
ここでの武田軍と徳川軍の戦いとは、
1572年12月22日夕刻に起こった
「三方ヶ原の戦い」と言われています。
若き徳川家康が武田信玄に完膚なきまでに負け、
身代わりになった家臣に助けられて、
命からがらに浜松城まで逃げ帰った戦いです。
(家康が脱糞した絵を描かせたことで有名)
門松が斜めに切られたのは、
浜松城で籠城をしていた時の出来事と解説してる
サイトがありますが、これは正しくないようです
信玄は、この時すでに病が重く、
一刻も早く上洛(天皇のいる京都にのぼる)しようと
1573年の正月は、浜名湖の北側にある刑部城で
新年を迎えています。
信玄は、その後4月に亡くなり、家康・織田連合軍はほっと一息つくのです。
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門松の竹を斜めに切る理由は、医者が関係している?
諸説あるうちの2つ目は医者にまつわる話です。
江戸時代、江戸城に飾られた門松は、武士の間にも広まり武家屋敷にも飾られるようになりました。
そのころの門松は、細工をしていない竹の束でした。
これを見た江戸の一般庶民はまねをしますが、竹を使ったのでは申し訳ないということで笹を使用しました。
そこで考えたのが、身分は武士より下ですが、庶民よりは上にあたる医者です。
笹を使わず、竹を使った門松を飾りましたが、武士に遠慮して竹を斜めに切り落としたものを使用したということです。
一説には笹は群生して笹藪(ささやぶ)となるので、藪医者と思われないように笹を使わずに竹を使ったという説もあります。
諸説あるうちの3つめは、斜めに切ると笑顔に見えるためという説もあります。
しかし、
口をあけて笑うのは江戸時代~明治時代まで、地方では戦前まで、はしたないことと思われてきたので、この説はインスタ映えが流行っている現代的な解釈ではないかと思いますね。
どの説も、これはと思うような根拠はないのですが、ちょっと想像してみるとお正月も楽しめるのではないでしょうか。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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